LOGIN痣と煤に覆われた少年は、白く照り返す路地にしゃがみ込み、地面の隙間を見つめていた。踏み固められた土とごみの間に、乾ききったパンの欠片がある。誰かに踏まれ、泥を吸ったそれを、少年は迷わず拾い上げた。指先は黒く、爪の間に砂が噛んでいる。軽く息を吹きかけると、土は落ちるが、欠片はさらに脆く崩れた。
口に運び、ゆっくり噛む。硬さが歯を打ち、舌に酸味が残る。動くたび、腕の痣が鈍く疼く。それでも噛む手は止まらない。頭上では洗濯物が風に揺れ、鍋の音と笑い声が、影も落とさず通り過ぎていく。少年は目を伏せ、水で流すように飲み下した。
食べ終えると、照り返しの強い地面をもう一度探す。何もないと知り、立ち上がる。煤に染まった背中は白昼にさらされ、彼は次の影を探して歩き出した。
地面ばかり見て歩いていた。踏めば割れそうな石、乾いた泥、何もないことを確かめるために。顔を上げたのは、足元に落ちた影が、急に二つに増えたからだ。細くて、きれいな形の影。見上げると、そこには少女の足があった。
汚れのない靴。ほつれのない服。路地には似合わない白さで、少女はきょろきょろと辺りを見回していた。迷子なのだと、すぐに分かった。ここに来る子じゃない。声をかける勇気はなかったけれど、少女のほうが先に口を開いた。
「……おおきい道、しりたい」
たどたどしい言葉だった。発音も、間の取り方も、この街のものじゃない。その声が耳に触れた瞬間、胸の奥が熱くなった。怒鳴られもしない。追い払われもしない。ただ、助けを求める声だった。
僕は一瞬、天使だと思った。煤まみれの僕の前に降りてきた、間違いみたいな存在。汚れた路地に影を落とすのに、その影さえきれいで、踏めば消えてしまいそうだった。
僕は指で、向こうを指した。言葉は少なかったけど、それで足りた。少女はぱっと顔を明るくして、ありがとう、と言った。その一言が、名前みたいに胸に残った。僕はまた地面を見る。でもさっきより、少しだけ世界が違って見えた。
名前が呼ばれた瞬間、講堂の空気が一段、澄んだ。西園寺千尋は一歩前に出る。照明が落ち、舞台の中央へと伸びる光の道が彼女を迎えた。制服の裾は揺れず、歩幅も乱れない。ここに立つために積み重ねてきた時間が、その背中を真っ直ぐに支えていた。舞台袖で宮藤万緒は静かに佇む。拍手の波に紛れ、彼はただ主人の横顔だけを追っていた。千尋の肩は落ち着いている。目線は高く、迷いがない。――大丈夫だ。万緒はそう確信する。彼女が背負ってきた重さも、今抱いている決意も、すべてを知っているからこそ。千尋が演台に立つ。原稿に視線を落とす一瞬、そして顔を上げる。その間に、彼女は過去を舞台の外へ置いた。叔父の名、歪められた評価、父の苦闘。すべては、ここから先の言葉のための土台でしかない。声が響く。凛として、揺るがない。言葉は丁寧で、しかし逃げない。未来を語るとき、千尋の声には覚悟が宿っていた。過去に甘えず、現在の責任を引き受ける意志。それは卒業生代表の答辞であると同時に、ひとつの宣言だった。万緒は胸の奥で、同じ志を静かに繰り返す。西園寺家を“過去の栄光”に戻すのではない。“今の力”で立たせる。そのために、自分は影でいい。前に出るのは千尋でいい。彼女が歩く道を、整え、守り、時に切り開く。それが執事としての務めであり、彼自身の選んだ生き方だ。拍手が広がる。千尋は一礼し、演台を離れる。舞台袖に戻る瞬間、視線が一度だけ万緒を捉えた。短い、しかし確かな合図。万緒は小さく頷く。言葉はいらない。二人の間に、同じ未来がはっきりと描かれている。光が落ち、幕が下りる。だが、終わりではない。ここからが始まりだ。万緒は主人の背中を見送りながら、心を固めた。西園寺千尋は、現在を率いる。自分はその隣で、決して揺るがぬ支えとなる。
講堂の舞台裏は、表の華やかさとは違い、ひっそりと張りつめていた。西園寺千尋は、答辞の原稿を胸に抱き、深く息を整えていた。卒業生代表。その肩書きは名誉であり、この学園では頂点に立つ証でもある。だが、胸の奥には別の記憶が、冷たい影のように広がっていた。――叔父の汚職。学園の外では、西園寺家の名は囁きと侮蔑を伴って語られる。かつての威光は色あせ、同情や好奇の視線に変わった。父は名誉を取り戻そうと奔走しているが、結果は思うように出ていない。その背中を思い出すたび、千尋の心は静かに軋んだ。屈辱を噛み砕くように、彼女は一度だけ拳を握りしめる。感情を乱さず、しかし否定もしない。悔しさも怒りも、すべてを自分の中に正しく置くために。「……私は」小さくつぶやき、千尋は目を閉じた。過去の栄光に縋る気はない。取り戻すのでも、真似るのでもない。現在に、西園寺家を復活させる。その中心に立つのは、自分だという確かな意志が、胸の奥で硬く結晶していた。名前が呼ばれる。千尋は背筋を伸ばし、舞台へと足を踏み出した。その背中を、舞台袖から宮藤万緒が見守っている。表情はいつもより引き締まり、微動だにしない。主人の決意を、彼はすでに理解していた。千尋が歩く一歩一歩は、静かで、しかし揺るぎがない。照明の下に立った彼女は、学園で知られる“モデルの西園寺千尋”ではなく、未来を背負う一人の当主としての顔をしていた。万緒は、その姿に目を逸らさない。志は同じだ。西園寺家を、過去の影から救い出し、今の力で立たせる。そのためなら、どんな役割でも引き受ける覚悟がある。執事として、片腕として、影として。千尋が口を開く。凛とした声が講堂に響いた瞬間、万緒は静かに息を吐いた。彼女は一人ではない。舞台袖でそう確信しながら、彼はただ真っ直ぐに、その背中を見つめ続けていた。
黒く艶めくリムジンが、学園の正門前で静かに停まった。門の向こうには、世界中の富豪や政治家の子どもたちが集う、生粋のお金持ち学園が広がっている。ここでは高級車も日常の風景だが、それでもこの車が到着すると、空気はわずかにざわめいた。車内で宮藤万緒はネクタイを締め直し、袖口と襟元を整える。鏡越しに確認したあと、向かいに座る主人へと視線を向けた。西園寺千尋は、非の打ちどころのない佇まいで座っている。モデルとして世界に名を知られるその姿は、制服姿であっても別格だった。「今日も完璧だ。お嬢様」万緒が微笑むと、千尋もまた柔らかく微笑み返す。「ええ。あなたもよ、万緒」その瞬間、リムジンのドアが開いた。外の光が差し込み、待ち構えていた視線が一斉に集まる。「それじゃあ、行きますか」万緒は先に降り、自然な動作で手を差し出す。千尋はその手を取り、二人は並んで校内へと歩き出した。まるで長年そうしてきたかのような、息の合った所作だった。すれ違う学生たちの視線には、隠しきれない羨望が宿っている。モデルとして名高い千尋と、顔立ちも成績も申し分なく、機転が利いて誰にでも気さくな執事――いや、もはや学園の象徴のような存在である万緒。その二人が並ぶ姿は、この学園において特別な意味を持っていた。千尋は視線に応えるように微笑み、時折お上品に手を振る。そのたびに、周囲から小さなため息や囁きが漏れる。万緒は一歩半歩前を歩きながら、学生たちに向けて丁寧に小さくお辞儀をした。その控えめな仕草に、今度は小さな歓声が上がる。「やっぱり素敵……」「完璧すぎる……」そんな声を背に、二人は歩みを止めない。向かう先は講堂。卒業式が行われる場所だ。学園で最も華やかな日、その中心に立つのは間違いなくこの二人だった。誰もが認め、誰もが憧れる――西園寺千尋と宮藤万緒は、今日も学園の視線を一身に集めながら、堂々とその道を進んでいった。
高層階の静かな部屋で、宮藤万緒は窓辺に立ち、ぼんやりと眼下の街を見下ろしていた。ガラスの向こうには、無数の建物と人の流れが折り重なり、遠くの車の光が細い線になって走っている。ここまで高くなると、音は届かず、世界はただの景色になる。「万緒」背後から声がした。「万緒?」返事はない。「……ねえ、万緒ってば」三度目で、ようやく万緒は我に返った。「ごめんごめん」振り向かずに答えながら、彼はもう一度街並みに視線を落とす。「昔のことを思い出していたんだ」「昔?」千尋の声が、少し弾んだ。ガラスに反射して、彼女の姿が近づいてくるのがわかる。制服姿の千尋は、もうすぐそれとも別れを告げる身だ。万緒の肩越しに映る彼女は、懐かしそうに目を細めた。
「みつけた!」その声で、僕ははっと目を覚ました。胸の奥が跳ね、夢だったと知って少しだけ息をつく。朝の路地はまだ冷え、トタン壁が鈍く光っている。あの日以来、僕の毎日は少し変わった。壊れた壁を直したり、誰かの代わりに洗濯物をしたりして、パンや少しの銭をもらう。それが、今の僕の日常になりつつあった。昼前、街がざわついた。喧嘩や揉め事でもないのに、人だかりができている。ここでは珍しい。近づくと、視線が一斉に僕に向いた。「これ、こいつじゃないか?」大人たちが口々に言う。理由はわからない。胸がざわつくのに、足は勝手に人だかりへ進んだ。真ん中に、黒く光る大きな車が止まっている。見たこともない車だ。窓が下がる音がした。静まり返る中、上品な女性が僕を見つめて微笑んだ。「あら、彼だわ」その一言が、僕の世界をまた動かそうとしていた。ドアが開く音がして、黒い車から女性が降りてきた。足音ひとつで、路地の空気が変わる。近づいてきた彼女は、迷いなく僕の前に立ち、高級そうな手袋をはめた手で、そっと顎に触れた。驚く間もなく、顔を左右に向けられる。「うん、うん……」意味ありげにつぶやく声。近い。香りも、視線も、全部が近すぎて、頭が真っ白になる。僕に会いに来た? 触っている? そんなはずはない。そう思うのに、現実は動かない。体はこわばり、息の仕方さえ忘れた。「もう! また逃げられちゃうじゃない!」その声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。聞き覚えがある。後ずさると、反対側のドアが勢いよく開いた。少女が飛び出してくる。あの、綺麗な子だ。「今日こそは逃がさないわよ!」指をぱちん、と鳴らす。乾いた音が合図みたいに響くと、運転席から男の人が降りてきた。前に会った人じゃない。背が高く、無駄のない動き。逃げ道を探す前に、腕が伸びてきた。「ちょっと――」声にならない声。軽く、でも確かに抱きかかえられる。抵抗する間もなく、僕は車の中へ押し込まれた。革の匂い、柔らかい座席。外の路地が遠ざかる。逃げるも何も、ないじゃないか
路地裏で、僕は三角座りをしていた。背中に当たる壁は冷たく、昼なのに影は動かない。膝を抱え、空腹をごまかすみたいに時間が過ぎるのを待っていた。待っていれば、たまに何かが起こる。何も起こらない日より、少しだけましだ。「みつけた!」弾む声がして、顔を上げた。ぱたぱたと駆け寄ってくる、きれいな姿の少女。埃のない靴、明るい服。路地が一瞬、違う場所になった。前に会った子だと、すぐわかった。「……また迷子?」自分でも、なぜそんな言葉が出たのかわからない。少女は首をぶんぶん振った。「ううん!」そう言って、くるりと後ろを向き、誰かに手招きをする。僕は不思議で、同時に嫌な予感がして身構えた。革靴の音が近づき、スーツ姿の男の人が現れた。ここにいるはずのない人。逃げるべきか、迷った。「すまないね」男の人はそう言って、僕の前にしゃがんだ。声は静かで、怖くなかった。差し出されたのは、バスケットいっぱいの食べ物だった。パン、果物、包み。匂いがはっきりして、喉が鳴る。僕は、口をぱくぱくさせるだけだった。何も言えない。現実だと思えなかった。「パパにね、言ったらお礼しなきゃって! だから持ってきたの!」少女が嬉しそうに言う。僕は反射的にバスケットを受け取り、すぐに押し返した。「だめだ。こんなにいいもの、もらえない!」胸が苦しくて、頭が真っ白になった。持っていたら、壊れる。罰が来る。そんな気がした。僕は飛び上がり、そのまま走った。振り返らず、ただ逃げた。角を曲がって立ち止まる。息が荒い。腹は空いたままだ。でも胸の奥に、消えない温かさが残っていた。僕は確かに、見つけてもらったのだ。